徐福伝説
秦の始皇帝
(在位紀元前221~紀元前210年)が初めて山東地方を巡幸し、泰山を登り天地を祭ったのは紀元前219年。
さらに黄県を経由して成山、芝罘山(しふざん:今の煙台)に登り、ロウヤ台まで南下した。始皇帝はロウヤ台の風景に魅了され、
3ヵ月もこの地に留まった。
この期間、 始皇帝は海上に現れた蜃気楼を見て大いに驚いた。徐福は、そこには仙人が住んでいる蓬莱、方丈、 エイシュウの三つの仙山があると上奏した。始皇帝は、東へ渡り不老不死の仙薬を手に入れるよう徐福に命じて、莫大な資金を与えた。
徐福は、 3年分の食糧、衣服、薬品、農具などを大船に積み、男女の子どもを約3千人率いて船出をした。しかし、 海に出た徐福は数年経っても仙山を見つけることができず帰国。9年後、始皇帝は再び山東に巡幸し、 航海から戻っていた徐福を呼びつけた。徐福は海で巨大な鯨やサメに出合い航行できなかったと言い、弓の名手の援助を求めた。 始皇帝はそれを許し、徐福に各種の職人、兵士、弓手など500人以上、五穀の種、食糧、器、水などを十分与えて、 再び仙薬探しの東渡を命じた。
しかし、 仙薬は見つからず、始皇帝の叱責を恐れた徐福は、同行の人々と共に故郷に戻らず日本に住みついた。 彼は進んだ技術や知識を日本にもたらし、地域の発展を促し、人々に尊重され「農耕の神様」「医薬の神様」として崇められたという。 徐福の物語は伝説に止まらず、司馬遷の『史記』にも徐福に関する記述がある。
徐福は日本に渡航してきて、筑紫(九州)、南島(四国)、不二山(富士山) に到着した。徐福は7人の息子の姓をそれぞれ福岡、福島、福山、福田、福畑、福海、福住と変えて、7つの地方に行かせた。こうして、 徐福の子孫は日本各地に広がっていったという。苗字に福、羽田、波多、佃などの漢字がある日本人は、 徐福の子孫あるいは徐福に同行した秦国人の子孫と言われる。
和歌山県新宮市には、今も秦姓の人が多く住んでいる。また、和歌山、佐賀、 広島、愛知、秋田、静岡の各県には徐福ゆかりの地が残されており、佐賀や和歌山では、徐福を神様として祭り、 毎年盛大な祭祀が行われている。
徐福の出航地 — ロウヤ台
ロウヤ台は山東省膠南市の南西26キロの海岸沿いにある。 2000年前の古人がロウヤ山の土を固めて造った台地で、北魏のレキドウゲンによる地理書『水経注』には「ロウヤ台は孤立して顕か、 衆山の上に秀でて、山の周囲は20里余り、大海に望む、~中略~、台基は3層、1層の高さは3丈で、頂は平ら、広さは二百歩余り、 高さは五里」と描写されている。
現在のロウヤ台は、やはり3層で、高さ183・4メートル、台の周囲は7. 5キロメートル、最上部の周囲は130メートルになっている。
周代の初期、 太公望が斉に封じられた時、8つの神仙像を作り、そのうちの四時主神の祠をロウヤ山に建てたと伝えられている。 のちの歴代皇帝はここに四時主神を祭った。さらに越王勾践(こうせん)がロウヤ山で諸侯と会して盟約を締結したことでも有名である。
始皇帝はかつて3回もロウヤ山に登り、数ヵ月もここに留まったのち、 3万人を動員してロウヤ台を築き、自らの功績を顕彰する石碑を刻んだ。そして、 徐福が三千人の男女の子どもを率いて日本へ出港したのもこの地からである。
このように、
ロウヤ山は古代中国文化の重要な地域として、1993年、膠南市政府はロウヤ台を中心にロウヤ台風景区の建設を始めた。
十数年の工事を経て、風景区はロウヤ台、ロウヤ台下の竜湾、ロウヤ台周辺の風景区、徐福殿、《秦の始皇帝が徐福に東渡を命じる》
像、ロウヤ文化陳列館などの見どころを持つ広大な観光区となった。
ロウヤ文化陳列館
ロウヤ文化陳列館はロウヤ台風景区の西大門外の東坂にあり、黒い瓦屋根、 赤い柱、反り返った庇、曲がりくねった回廊を持つ建物で、一見して秦・漢代の様式だと分かる。陳列館の前には始皇帝の青銅像が建ち、 統一という大業を果たした偉大な始皇帝がロウヤ台で風を受けている凛々しいイメージが表現されている。
陳列館は玄関ホール、メイン展示ホール、回廊からなる。玄関ホールには、 『ロウヤ台図』、四時主神の祠の模型、古代ロウヤ地区の年表、ロウヤ歴史変遷図などが展示されており、1階には、 春秋から漢代にかけてロウヤに巡幸した12人の皇帝の像と、彼らがロウヤ台に立つ場面を描いた壁画と地図が展示されている。2階には、 ロウヤ台から出土した文化財などが展示されている。
徐福の故郷 「カンユ」
徐福の故郷と言われる場所は二つある。一つは山東省竜口市徐郷で、 もう一つは江蘇省のカンユ県徐福村である。史料によると、徐福は戦国末期~秦初期に山東省竜口市徐郷で生まれたが、 江蘇省のカンユ県徐福村で育てられた。それで故郷が二ヵ所あるというわけだ。
カンユ県徐福村は江蘇省の北東部にあり、 南京から300キロメートル離れた場所にある。
徐福村発見は、 1982年に行われた地名調査の際、『徐阜』という村が発見されたことがきっかけだ。
地元の人はその村の名は元々『徐福』といい、明清時代には『徐福村』 と言われていたという。
「地元から出土した文化財や史料などの調査から徐阜村が徐福の故郷であると確信しました。しかし、 その後の調査で徐という姓の村民はみつけることができず、徐福の後裔はほとんどが韋、王、張、陳、宋、 喬などと名乗っていることが分かりました。これは、始皇帝の迫害を恐れたためでしょう」と専門家はいう。
徐福廟に立つ徐福の像
徐福村には徐福廟が祭られている。 面積2400平方メートルの敷地に漢代様式の祠が建てられ、徐福像が奉納されている。南東に向き、 はるか遠くを見つめて立つ高さ3メートルの像の表情には、剛毅さと賢さ、そして故郷を離れる徐福の未練が感じられる。
正殿前には祭祀台があり、面積は約80平方メートル。 東西の両側にはそれぞれ石碑を納めた建物がある。西の側殿には徐福の故郷から出土された新石器時代の石斧、石の錨、薬研(やげん、 薬を作る石うす)などの文化財が所蔵されている。また、日本の徐福ゆかりの地の写真も展示されている。



