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淡水パールの産地 諸曁(しょき)

2009.11.30

春秋時代の都であった「諸曁」

 

  諸曁(しょき)の歴史は古く、新石器時代にはすでに人が生活しており、 古代越文化発祥の地の一つといわれる。

 史書によると、中国最初の王といわれる禹(う)は、ここに諸侯を集めて、 徳のある者に爵位を、功労者に官位を授けたため、この地を「諸曁」、つまり天下の諸侯が集まって議事した場所と名付けられたという。

 春秋時代に、 越王はここに都を建て、それ以降、歴代王朝は都を中心に郡や県を設けた。

 2500年にもおよぶ歴史を持つ諸曁は、現在も特別な趣の雰囲気が漂う町だ。 町を貫いて流れる浦陽江は水がきれいで、穏やかなさざ波に川面はきらきら光り、川辺では女性たちが、 昔のままに木棒で叩き洗濯する風景が見られる。時が止まったような懐古の情を誘う水郷の町だ。

 

 

淡水真珠養殖の基地「山下湖鎮」

 

 2008年7月1日、ロイター通信社は、 「汚染とは縁のない発展を遂げている中国の真珠養殖業」をテーマに、諸曁の真珠産業の特別報道を行った。そのレポートでは 「諸曁の数十年もの間変わらず、きれいな川の水が、中国を世界一の淡水真珠の養殖国に仕立て上げた。現在、 町全体が真珠の国際貿易センターに変身しようとしている」と、中国真珠産業の姿を報道した。

 諸曁の真珠養殖産業は、主に諸曁市の北部にある山下湖鎮※に集まっている。 山下湖鎮での淡水真珠養殖産業は、1960年代末に始まった。(※鎮とは町のこと)

 40年近い実績を経て、現在では鎮全体で約3000戸が養殖を営み、 従業員は約1万5000人にのぼる。養殖面積は1万3000ヘクタールを超え、 年間の中国全体の生産高の7割を占める600万トンの真珠を生産しており、中国最大の淡水真珠の養殖、加工、貿易基地として、 生産だけでなく真珠アクセサリー専門市場にまで成長し、「中国真珠のふるさと」といわれるまでになった。

 

 

諸曁真珠市場の施設

 

 諸曁真珠市場は、建築面積1万5360平方メートル、 およそ1000軒の店舗があり、貿易、インターネットビジネス、アクセサリー加工が一体となり、金融、通信、郵便、 宅配などのサービスも完備した中国で最大規模の先進施設と近代的サービスの市場である。

 扱う商品は淡水真珠、真珠アクセサリー、真珠工芸品、 真珠を原料にした化粧品の四種類を中心に、品数は1000余点にも及ぶ。中国国内のほか、世界30カ国以上の国及び地域と取引があり、なかでもアメリカ、日本、ロシア、 東南アジア諸国などが主要な取引先となっている。

 年間の取引高は淡水真珠600トン、 真珠アクセサリーは20万点余に上る。 ちなみに香港市場が扱う淡水真珠の9割以上が諸曁産のものである。

 

 

中国古代四大美女「西施」の故郷

 

 「西施」は春秋時代に諸曁苧蘿(しょきちょら)村に生まれ、 本名は施夷光(しいこう)といい、楊貴妃、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並び、 中国古代四代美女の一人といわれる。

 西施の生まれた土地については、諸曁の苧蘿村といわれているが、蕭山 (しょうざん)の臨浦鎮だとする人もいる。 西施が生まれた当時の村は、現在、蕭山の県境にあるが、昔は諸曁に属したため、 人々は西施の出身地を諸曁としているというわけである。

 浣紗渓 (かんさけい)の東にある海抜127メートルの苧蘿(ちょら)山は、会稽山山脈に属し、かつての越の地である。 緑豊かな山が高く聳えており、特別の趣がある。

 苧蘿山の麓、 浣紗渓の西岸に「西施廟」がある。ここは西施の住居だったところで、のちに西施が伝説となり神格化されたのに伴い、 南宋代には西施廟となり、地元の人々は「娘娘廟」と呼んだ。東の苧蘿山に面して建てられた廟の遺跡には、幅五間の主殿と脇部屋3間、 そして舞の名手だった西施のための舞台の跡が残っており、今でも昔の建築規模を知ることができる。

 西施廟の前を流れる川に面して苧羅亭があり、 苧羅亭の前には江南水郷風の小橋が架かっている。また、苧羅村にある「施家渡」 は西施が越国の都に帰ったときに通った渡し場だとされている。

 今も人々に愛され慕われている西施とは、春秋時代、越王勾践(こうせん) と呉王夫差(ふさ)との確執の犠牲となった美女。越王勾践は策を持って、女色に弱い呉王夫差へ西施を贈った。策略は見事に当たり、 夫差は西施を溺愛し、政治をおろそかにし、結果として呉国は滅んだ。傾国の美女といわれるゆえんである。 勾践の越国復興に重大な役割を果たしたとして西施は今日まで人々に語り継がれている。この西施伝説は、文学、絵画、建築、諺、料理、 習慣などさまざまな分野で一つの文化となって伝承され、2006年には「世界無形文化遺産」に登録された。

 

 

中国名勝地の一つ「五洩(ごせつ)」

 

 諸曁市の中心から23キロメートル西北に由緒ある名勝地として知られる 「五洩」がある。

 五洩風景区は72の峰、36の坪、25の崖、10の石、5つの滝、3つの谷、 2本の渓流、そして五洩湖からなり、美しい山水画を織り成している。滝は5段階に分かれており、それぞれ月篭軽紗、双竜争壑、 珠簾風動、烈馬奔騰、鮫竜出海と名付けられている。地元の人々は滝を洩(シェー)と呼ぶため、これらの滝は五洩(ウーシェー) と呼ばれる。

 五洩は、 すでに北魏(386~534年)の時代からその名を知られていた名勝地である。

 五洩観光は、 青口村から入るルートが一番のお勧め。

 道路に沿って山を登ると、傍らに渓流が流れ、 遠くには折り重なるような岩がある。高さ数10メートルの岩の重なりは、色とりどりの屏風を見るような景観だ。 そして長さ2キロメートル余の曲がりくねった「五洩湖」は、連山の中に青緑のシルクの帯を浮かべたように見える。船上からは、元宝峰、 鷲鷹峰、仙桃峰、老僧峰などユニークな名が付いた岩を見ることができる。

 

 

曹洞宗発祥の地

 

 陸路を五洩渓谷沿いに北上し、遇竜橋を過ぎると「五洩禅寺」に着く。 五洩禅寺はまたの名を永安禅寺といい、五台山の高僧霊黙(れいもく)法師が、唐時代の元和三年(808年) に建てたものと伝えられている。江南を行脚し修業を重ねていた霊黙禅師は、「十里に渡る神業の屏風」といわれる景観に魅せられ、 この地と定めて、土を担ぎ石を積み上げ、木を伐り屋根を葺いて禅寺を建てた。同時に弟子を集めて仏教を広く伝播した。 今でも寺の門の側に明代の「三摩地」という題辞の石刻が残されている。

 霊黙法師が五洩禅寺を創建して間もなくのこと、 諸曁に住む17歳の男子が剃髪して弟子となり、良价(りょうかい)(807~869)と名付けられた。良价は賢く聡明で、 修行を重ねたのちは霊黙法師の片腕として寺を守った。

 霊黙法師亡き後、良价は五洩禅寺を出て各地の名寺を巡り、曇晟(うんがん) 法師に出会い、師事した。

 のちに曇晟の弟子曹山本寂と共に曹洞宗を開いた。 曹洞宗は禅宗五派の重要な一派となり、当時の中国に広まった。宋時代の宝慶元年(1225年)には天童寺の住職高僧如淨(にょじょう) (曹洞宗13代目)により曹洞宗はさらに盛んなものとなった。ちょうどその時期に、道元が日本から留学に来て、 天童寺で修業ののち中国全国を行脚し、帰国後、曹洞宗を日本に伝えた。現在、日本には1万8000の曹洞宗の寺があり、 800万人の信者がいる。曹洞宗の開祖良价法師の修業は諸曁の五洩禅寺から始まったのである。

 幾年もの栄枯盛衰を経てきた五洩禅寺は、絶えず増改築が行われ、 現在では百以上の部屋を擁する規模になっている。