古都「曲阜」 の歴史
曲阜(きょくふ)の歴史は古く、 原始時代に人類の祖先がこの一帯で生活していたことが解明されている。
青銅器時代の殷(紀元前1300年頃~1027年)の古都であり、周・ 漢時代には魯国の都が置かれていた。「曲阜」という文字が最初に見られるのは、『礼記・明堂位』の中で「成王、 周公を天下の勲労ありとし、これをもって周公を曲阜に封じた」とある。後漢の應劭(おうしょう)は「曲阜は魯城の中にあり、 委曲し長さ七、八里」と記しており、これが曲阜の名前の由来となった。
曲阜は、 春秋時代の思想家・教育家・儒教の創始者である孔子の故郷。孔子の思想は、中国の歴史や文化に大きな影響を与えた。 このため清代に至るまで、中国歴代の皇帝が曲阜を大切に保護してきた。
孔子誕生の伝説
孔子が生まれた場所は、 曲阜の町から南東30キロメートルにある尼山の麓といわれる。孔子の父、叔梁コツ(シャクリョウコツ)は魯国の武士で、 2人の妻には一人しか子どもがなく、その子も生まれつき身体が不自由だったため跡継ぎにはなれず、60歳の叔梁コツは17歳の顔徴在 (ガンチョウザイ)を新たに妻とした。やがて顔徴在は身ごもり、夫妻は毎日尼丘山に向かって男児を授かるように祈った。ある日、 祈っていると、突然空中に麒麟が現れ、口にくわえていた玉と絹を吐きだし、雲の中に去っていった。叔梁コツが玉と絹を見ると、「奎星 (けいせい)下凡し、周を振興す(※奎星が人間界におりてきて、周を励まし、天下をとらせた)」と書かれていた。 そのとき暗雲が湧き立ち、2匹の竜を伴った仙人が雲間から現れ、「天感じて聖人を生む、故に降すに和楽をもってす (天は感応して聖人をつくった。それで人間界に和楽をもたらした)」と言った。
そして、 無事男の子が誕生した。頭は壷のような形で、顔は鼻、口、両目、両耳など七つの穴がむき出しで、あまりにも醜い男児だった。 がっかりした両親は、この子を山麓に捨てに行った。すると、山の上から虎がやってきて、子どもを山の洞穴に運び、乳を与え、 愛情深く育てた。洞穴の中は風が通らずとても暑かったので、子どもがぐずると、鷹が飛んできて、洞穴の入口で羽ばたいて風を送った。 虎と鷹に育てられたこの子が成長して孔子になった、というのが孔子誕生の伝説である。
この山の洞穴は「尼山夫子洞」と呼ばれ、尼丘山は、孔子の諱(いみな: 貴人の本名を憚る習慣。孔子の本名は丘)により、尼山とされた。
※奎星 (けいせい)・・・文教をつかさどる星
曲阜の「三孔」
曲阜は小さな町だが文化財の多いことで国内外に知られている。 保護文化財は30ヵ所ほどあり、重要保護文化財は112ヵ所。その中でも孔子が祭られた「孔廟」、孔家の子孫の住まい「孔府」、 孔子の墓「孔林」は、「三孔」と呼ばれ、1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。
【孔廟】
廟の前方に牌坊、石橋、レイ星門、聖時門、弘道門、大中門があり、 大中門からが孔廟の本陣となる。広大な廟は、古樹が鬱蒼と繁り、厳かな雰囲気が漂う。「碧水橋」は北京の金水橋を模して造られたもの。 清の乾隆帝が和シンと紀暁嵐(キギョウラン)という2大臣伴って孔子廟を訪れたとき、紀暁嵐は乾隆帝が橋に上るときに 「一歩一歩高く登ります(トントン拍子に成功する意味)」と高らかに声を上げ、橋から降りるときには「代々伝えられます」と叫んだ。 乾隆帝はこれを大いに喜び、紀暁嵐の機知を褒めたという言い伝えが残っている。
碧水橋を下りると碑林がある。 孔廟は中国代々の皇帝が孔子を祭る祭祀を行った場所であるため、碑林には多くの碑がある。 唐代から清代までの各種石刻が200ほどあり、石碑の下には「贔屓」(竜の子)という動物が彫られている。贔屓は、竜の頭、亀の背、 鷹の爪、蛇の尾を持ち、皇帝の威厳と権勢の象徴となっている。
孔廟で最大の建物は大成殿。荘厳で豪華な建物は北京の太和殿、 泰山の岱廟の天竺殿と並び称される中国古代三大宮殿建築の一つである。建物前の石段には2匹の竜が、欄干には竜と鳳凰が彫られている。 建物の中央には「生民未有」という大きな文字が金色に輝き、儒教の至善思想が示されている。建物を支える10本の柱にも竜が彫られ、 下部にはそれぞれ異なる蓮の花の台座がある。建物の西側にある9羽の鳳凰が彫られた10本の柱は、孔子の夫人のためのものである。
【孔府】
孔府は孔子直系の子孫が住んでいる邸宅。
孔子の直系は9代目までは1人だけだったが、漢代には人数が増え、加えて孔子の子孫が高い位を与えられ、
邸宅は拡大する一方となった。 宋の仁宗は孔子の46代目の子孫を「衍聖公(エンセイコウ)」に封じ、これより、邸宅は
「衍聖公府」と呼ばれ、のちに孔府となった。 現在の孔府は明代に拡張・修理されたもので、全敷地面積は16万平方メートル、
南北は長さ2キロメートル、敷地の中には東・中・ 西の3本の通路がある。中央には9棟の建物が縦に並ぶ。
前部は事務処理をするところ、後部は内宅と呼び、生活するところとなっている。 内宅の門をくぐると、前堂の立派な建物がある。
ここが70代目の衍聖公が住んでいた場所で、 現在は当時の生活の様子が保存されている。
【孔林】
孔府から北へ1.5キロメートルに、孔子とその後裔たちの墓地「孔林」 がある。弟子の子貢がその墓を守るために「楷」の木を植えたときから、何万株にも増えた。漢代以後、 歴代の統治者は13回にわたって孔林を修理・増築してきた。周囲は高い塀に囲まれ、前部の聖林坊と2つの林門がある。 孔子がこの地に葬られたのち、2400年余の間、その子孫が葬られ、塚は10万個におよび、4000の石碑と約10万株の樹木がある。 南北に1266メートル幅44メートルの林道が走っている。孔林は中国で最大規模、 しかも最も長く続き、 保護も完全な一族の墓地なのである。
尼山孔廟
尼山の夫子洞の近くに「尼山孔廟」が建てられている。『曲阜県志』には、 後周の顯徳年間に尼山を孔子の生誕地として廟が建てられたと書かれている。尼山孔廟の2番目の大門は「大成門」といい、その東南に 「観川亭」という涼亭がある。言い伝えによれば、孔子はここで5つの川が合流する風景を見たという。『論語・子罕』には、 「子川上に在りて曰く、逝く者は斯の如きか。昼夜を舎てず(川辺に立って孔子は『過ぎ去っていく者は川の流れのようなものだろうか。 昼も夜も休むことなく流れていく』)」とある。この名言は、まさにこの場所で孔子が発したもの。1336年、 元の皇帝はここに観川亭を建て、この名句の記念とした。
写真は孔廟



