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歴史に残る人物の足跡を訪ねて 五丈原・宝鶏・釣魚台

2009.06.30

諸葛孔明、 終焉の地 「五丈原」(ごじょうげん)

 

 現在の宝鶏市から50km余り離れた五丈原は、 面積約12平方kmの台地で高さは約20m。南は棋盤山、北は渭河に面し、東西は深い渓谷となった険しい地形である。

 

 五丈原に入った孔明は、渭河の沿岸で兵士たちに屯田を行わせ、 長期戦の構えで魏を討つ機をうかがった。このとき蜀軍の軍規は厳正で、地元の人々は安堵していたという。蜀軍が田を耕した場所は、 1800年を経た今も「諸葛田」と呼ばれている。

 彼の才覚をよく知る魏の司馬仲達は、渭河の北岸を堅く守って出兵を控えた。 対陣は100日余に及んだが、234年の秋、天下に名を馳せた孔明も病からついに陣中で最期の時を迎える。 死期を悟った孔明は後継者の姜維に自らまとめた『兵法二十四編』を託し、 副官の楊儀には自分が亡き後のことを記した書を錦の袋に入れて渡したという。さらに、撤退の際、魏軍が追撃してきたら、 前もって作らせておいた自分の木像を車に乗せて陣頭に押し出すよう命じたと伝えられる。

 

 孔明の死後、撤退を開始した蜀軍は、魏軍が追撃してくるや、孔明が言い残したとおり、 彼の木像を陣頭に出した。孔明健在と見た魏軍は慌てて軍を退いた。のちに「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 といわれる逸話である。その後、蜀の堅ろうな本陣跡を見た仲達は、改めて「天下の奇才」と感嘆したと伝えられる。このときの陣が、 有名な「八陣図」である。

 

 孔明を記念するため、人々は唐代初期に五丈原に廟を建て、 元代に今の規模にし、明・清などに計9回の補修が行われた。

 諸葛亮廟は南向きに建てられ、1万2千平方kmの敷地を持つ。 廟は前部に大門、鐘・鼓楼、拝殿、八卦亭、正殿があり、後部に落星亭、碑廊、孔明の衣冠塚がある。衣冠塚は、 孔明の衣服などの遺物を葬った墓で、落星亭には、五丈原の戦いの陣中、孔明が没したときに落ちてきたという赤い流星(隕石) が祀られている。

 

 孔明が本陣として指揮をとった城砦は今も「豁落城」(かつらくじょう) として残る。豁落城南部の秦嶺山の中腹にある平たい石は、上に碁盤の目のような線が刻まれ、 ここで孔明が将棋をさしたといわれることから棋盤山と呼ばれている。

 

※上の写真は諸葛亮廟の正殿

 

 

黄河文明発祥の地のひとつ 「宝鶏」(ほうけい)

歴史旧跡に囲まれた「宝鶏」

 

 2700年あまり前の春秋時代、すでに中華民族は炎帝・ 黄帝の子孫であるといわれていた。その、中国の始祖とされる炎帝は、 現在の宝鶏市区の渭河の南にある姜水のほとりに生まれたといわれる。言い伝えでは、 炎帝はここで人々に農耕や商売を教えたとされている。炎帝の子孫たちは渭河の南にある浴聖九竜泉の上に神農祠を建て、 祠の南の常羊山の上に炎帝陵を建てた。今日に至るまでここは人々が炎帝を祀る場所となっている。

 周・秦王朝発祥の地である宝鶏では、青銅器が絶えることなく出土しており、 「青銅器の故郷」とも呼ばれている。また、宝鶏は保存状態の良い青銅器が見つかることでも知られ、重要な銘文を持つものも多く、 歴史的資料としての価値が非常に高い。これらの青銅器を展示するため、1990年に青銅器博物館を建設。博物館は「鼎」(かなえ) の形をしている。鼎は祭祀や儀式で用いられる重要な器で、団結、統一、権威を象徴している。 博物館は1万平方km以上の敷地面積を持ち、内部は5階に分かれている。主展示場のほか、臨時展示場なども。古代文明発祥の地らしく、 象形文字のコーナーがあり、漢字が生まれるまでの過程なども展示されている。

 

 

※炎帝陵台

 

 

数多くの歴史の舞台となった「宝鶏」

 

 かつて宝鶏は、陳倉山(現在の鶏峰山) が近くにあったことから陳倉と呼ばれていた。言い伝えによれば、唐代の757年、陳倉山で突然神の鶏が鳴いた。 当時即位したばかりの粛宗(しゅくそう)は反乱を鎮めるため陣中にあったが、その鳴き声を聞いた後、次々と勝利を収めた。 粛宗は神の鶏を国の宝と考え、陳倉山を鶏峰山に改め、陳倉は宝鶏と改名された。

 陳倉に関連し、「明らかに桟道を修し、暗かに陳倉に渡る」 という有名な作戦がある。諸侯が連合して秦を攻めたとき、劉邦が秦の都咸陽(かんよう)を陥落させたが、 総大将の項羽は劉邦を僻地に封じた。劉邦軍は退くときに桟道を全部焼き払うが、その後力を貯えた劉邦は桟道を修復し、 かつて退却した道から打って出る姿勢を見せた。項羽軍は守備を増強したが、本隊はすでに間道を通って陳倉に到着。 劉邦は項羽を打ち破り、天下統一への一歩を踏み出した。

 

 

周代の伝説的な賢人 「太公望の釣魚台」

百家の宗師と称される太公望

 

 宝鶏市の南東約15kmにあるバンケイに石の台がある。伝説によれば、 西周時代の傑出した政治家・軍事家である姜子牙(太公望)がここで釣り糸を垂れ、文王と出会った場所とされ、釣魚台と呼ばれている。

 太公望は、自分の噂が文王の耳に入るよう、真っすぐな針を使い、 水中にも入れずに釣りをしていたという話もある。太公望という呼び名は、文王が、彼を先帝の「大公」が「望んで」 いた人物であると言ったためと伝えられる。

 彼は、周の軍師となり、文王の子武王を補佐し、殷の帝辛(受王) を牧野の戦いで打ち破り、後に斉に封ぜられた。

 太公望は、単に周の軍師にとどまらず、広範な影響力を持つ兵法家、軍事家、 政治家としても知られる。歴代の書物は彼の歴史的地位を重んじており、儒家・道家・法家・兵家・ 縦横家らの思想家はみな彼を本家と考え、「百家の宗師」と呼ばれている。

 溪にあるこの釣魚台には、唐の時代に廟と像が置かれ、 3度にわたる再建を経て、現在見られる「太公廟」「文王廟」「望賢台」「乞子崖」「釣魚台」などの建物や祭殿が完成した。 周辺では四季折々の素晴らしい景色を味わうこともできる。

 

※右の写真はバンケイにある太公望の釣魚台