稲作を教えた 「炎帝」
まだ農耕を知らなかった時代、人々は狩猟や漁、果実の採集などで命をつなぎ、 餓えや寒さに喘ぎ、常に命の危険にさらされる原始的な生活を送っていた。人々のそんな苦しい生活を見て、 王であった炎帝は非常に心を痛めていた。
炎帝は、日々知恵を絞り、食べられる実がたくさん収穫できる作物を探し、 危険を冒して山河を踏破し、数え切れないほどの実を試食した。苦難の末に炎帝は稲を見つけ、稲作技術と道具を人々に伝えた。 その功績を称え、人々は炎帝を「神農」と敬った。
炎帝は、稲作以外にも漁猟や製陶、絵画、楽器制作の技術や医薬・ 健康などの知識、舞踏など、多くの知識や文化を人々に教え、中国で教育を行った先駆者となったのである。
また、炎帝は土地と人々の統治にもさまざまな工夫を凝らした。贅沢をせず、 見返りを求めず、富を私有せず、皆が共に富み栄えることを望んだ。徳を以って統治したため、褒美を与えずとも人々は働き、 戦わずして豊かになり、厳しい刑罰を下さなくても悪を行わず、法令を出さなくても秩序が保たれたため、炎帝は善政を敷いた王として、 また、中華民族の始祖として崇められた。

宝鶏地方の炎帝祭
宝鶏では毎年「炎帝祭」が開かれている。炎帝祭には、民間で行われる「民祭」 と、時の権力者によって開かれる「公祭」がある。
民祭の時期や形式は地域によってさまざまだ。宝鶏市渭濱区神農鎮の場合、 旧暦の1月11日を炎帝の誕生日、7月7日を命日とし、それぞれ宝鶏市から約20kmの天台山神農廟で炎帝祭が行われる。 音楽が演奏され供え物が捧げられた後、祝詞が読み上げられ、最後に全員が炎帝像に一礼をして終わる。
このような民祭は明・清代に最も盛んに行われ、 現在に至るまで長く受け継がれてきた。1993年からは、毎年の清明節(旧暦4月4日、5日頃)と旧暦7月7日に、 炎帝祠広場で開かれている。
公祭は紀元前422年、秦の霊公が今の呉山で炎帝を祭ったときまで溯る。 その後、漢代の高祖、武帝も炎帝を祭ったと記録されている。明・清代には春と秋に、県の長官が炎帝祭を行った。
現在の公祭は宝鶏市政府の主催で、毎年清明節の日に 「宝鶏各界民衆公祭炎帝典礼」を開催。常羊山の炎帝陵を会場として、市長が祝詞を読み上げ、料理や果物が供えられ、 歌や踊りなどが披露される。近年は規模が拡大し、国内外から1万人を超す人々が訪れる。



