水の恵み豊かな「魚米の郷」
無錫市内を歩くと、 街の至る所に古都の風格を感じることができる。運河に架かる清名橋の高みからは、川辺に建つ家々を一望にすることができ、 両岸の街並みは最も特色のある無錫の水郷風景である。
運河沿いの民家は高さもまちまちで、 さまざまな船着場を持ち、一部の家屋の壁が剥げ落ちてまだらになっているが、今も多くの人々が水の流れのもとで暮らしている。
『史記』の記述によれば、商朝(前17世紀初め頃~前11世紀頃)の末期、
周太王の長男泰伯とその弟仲雍が陜西省からこの地にやって来て居を定め、梅里(現在の錫山市梅村一帯)に築城し「勾呉」
国を築いた。これが無錫の始まりとされる。無錫の名が最も古く見られるのは『漢書』で、前770年頃、
恵山東側に錫の鉱脈が発見されたという。錫は青銅器を作るために不可欠な原料のため、
現地の人と外部から来た人の何百年にもわたる争いの火種となった。しかし、戦国末期には錫の鉱脈は少なくなった。前224年、
秦の始皇帝の大将である王翦は、錫山で石碑を発見した。そこには「錫有れば兵し、天下争う、錫無ければ寧し、天下清す」
という言葉が刻まれていたといわれ、人々の太平の暮らしへの憧れを示している。ここから「無錫」の名が天下に知られ、
都市の名になったという。ただし、地名の由来に関しては諸説ある。
無錫の気候は温和、湿潤で雨量が多く、 四季がはっきりとしている。「太湖の真珠」などといわれることもある無錫は、平原地帯に位置し、 土地は肥沃で川が網の目のように巡り物産が豊富である。太湖の水産物に恵まれることから、「魚米の郷」ともいわれている。
無錫は古くから経済が発展し、明代には織布、 製陶、レンガ作りなどの手工業が発達していた。また、穀物の取扱量も、清の乾隆年間(1736~1796年) には一年で7~8百万石に達し、19~20世紀初めには無錫、長沙、蕪湖、九江は全国四大米市と称された。 近代には運河の両岸に商工業が集中し、「小上海」といわれるほどの繁栄をみせた。
都市化の進む中、 水の流れのもとで暮らす人々の生活は今も変わらない。船上生活を営む人々の姿は無錫の日常的な風景である。市内を縦横に流れる水路は、 週末になると釣りを楽しむ人々でにぎわう。
街の歴史を築いてきた運河
無錫市内の中心部を流れる運河は京杭大運河の一部で、約41kmあり、北は長江、南は太湖につながる。
無錫の運河の歴史は3000年前の商朝末期にさかのぼる。「勾呉」国を建国した周太王の長男泰伯が、 灌漑と排水のために民を率いて運河を開削したのが始まり。610年には隋の煬帝が京杭大運河を全面的に開削し、 北京と杭州を結ぶ全長約2500kmの運河が完成した。これにより、無錫の運河は交通の要衝となり、 南北運輸の大動脈となった。1888年、清朝が「南漕北移(南の物資を北に輸送する)」策を行った際には、 無錫は南方の県から北京へ年貢米を運び出す起点となった。
無錫の運河は、統治者の巡察旅行にも使われ、 康煕帝、乾隆帝は江南巡察の折、無錫に逗留したことがある。
運河に架かる橋の中で最も大きく保存状態が良いのが清名橋である。アーチ型の石橋で、明の万暦帝時代(1573~1620年) に造られ、1666年に再建された。橋の長さは43.2mあり、幅が5.5m、高さが8.5m。アーチ部分の距離は13.1mで、すべて花崗岩を切り出して造られている。 アーチの内側には19世紀に刻まれた橋の紹介が残り、橋げたには装飾はなく素朴で優雅である。今日、 清名橋は何千年もの運河の文化を垣間見る窓口であり、最も有名な観光スポットとして国内外の観光客を引き付けている。



