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民衆の守り神、関羽を祀る 関帝の祭り

2008.08.20

神となった武将、関羽

 関羽の尊称は「関聖帝君」、略称を「関帝」、または「関公」という。関公は姓を関、名を羽、字を雲長といい、後漢の延熹四年(162年) に山西の解州常平村に生まれた。伝説によれば、関羽の姓はもともとは関ではなかった。幼いころから義侠心に富んでいた彼は、 解州の都で県知事の義弟に一人娘を奪われた婦人を救うため県知事とその義弟をせいばいし、 関所を抜けるときに自分の姓を関と名乗ったのが始まりという。

 関羽は解州を離れた後、漢の皇室の後裔である劉備と、強く勇敢な張飛と義兄弟の契りを結び、やがて四川に蜀を建国し、曹操・ 孫権とともに覇権を競った。いわゆる三国時代である。三国の争いのなかで、関羽は最後まで呉の降伏の勧めを受け入れず、219年に戦死した。 関羽は常に剛直、勇敢で、死ぬまで劉備に忠誠を尽くした。彼の「忠、義、仁、勇」は中国の人々に模範とされ、 文聖である孔子とともに武聖と並び称されて、仏教、道教、儒教すべてにおいて崇拝される唯一の神となった。現在の道教では、 彼は主に財神とされている。全国各地に建設された「関帝廟」には今も線香の煙が絶えない。

 

中国最大規模の解州関帝廟

 関帝廟は中国で最も数が多い廟であり、その中で完全に保存され最大規模を誇るのが、山西省解州の関帝廟である。 廟内には300余りの建物があり天下第一の名に恥じない。

 解州は関羽の生まれ故郷であり、史料によれば、隋代にはすでに関帝廟が建てられていた。その後、 30回余りの大規模な改築・修築が行われ、中国の伝統的な「前朝後寝(前部で政治を行い、 後部で生活する)」という配置となり、御殿のような大きさになった。

 解州の関帝廟は総敷地面積22万平方メートル余り。廟は南向きに建てられ、結義坊、君子亭、 三義閣などを主要建築物として南北の中軸線に沿って展開している。中軸線の南端は「結義園」で、劉備・関羽・張飛の 「桃園の誓い」を記念したもの。「結義園」の東側には、「万代瞻仰」という石の碑坊(鳥居の形をした装飾がある建物)があり、 「結義園」の西側には「威震華夏」という木の碑坊がある。中軸線の北端には主廟や崇寧殿など何層にも重なる巨大な建築群があり、 関公祭が行われるメイン会場となる。

 

祈りに包まれる関公の縁日

 毎年旧暦4月8日は、解州の人々が関公の縁日を行う日である。明清代のころにはすでに関公の縁日、つまり関帝を祀ったお祭りが行われ、 交易や交流、娯楽が一体となった集会が行われていた。伝説によれば、4月8日は関公が廟を出て街を巡察する日で、 人々が四方八方から集まり関公の像を拝む。この日は関公の像を載せた16台の神輿が街を巡り、像が通るとき、皆お祈りする。農民たちは収穫を祈り、 商人は商売繁盛を祈り、学問を志すものは学業成就を祈った。そのため、何万人もの人で盛況になったという。

 解州の関帝廟は、関公文化をさらに高揚させるために、2006年から縁日を復活させたという。4月8日には、 明代の関帝像が16台の神輿に担がれ街を巡り、一目見ようと8万人近くの人々が押し寄せる。 商店の前にはどこも線香や供え物が置かれ、神輿が現れた場所では爆竹が鳴り、とてもにぎやかである。 関公文化が解州に与えた影響の深さは、実に驚くべきものである。