清明節と寒食節のいわれ
清明節は周代に始まった祭で、2500年余りの歴史があり、 寒食節と深い関わりを持っている。清明節の前日である寒食節では火を用いないので、冷たい食物しか食べない。 このような風習は春秋時代に始まった。
当時、晋国の公子重耳は後継者争いに巻き込まれ、命を狙われたが、忠臣介子推の計らいで亡命を謀り、救われたのである。後年、 重耳は国に戻って、君主となった。これが春秋の五覇の一人、晋の文公のことである。
文公は亡命中に、自分を支えてくれた者に恩賞を与えたが、肝心の忠臣である介子推は母を連れ深山に隠遁し行方が知れない。 家臣共々山中を探したが、それでも見つけることができなかった。そこで、 山を焼けば孝行息子の介子推は母を救うために山から出てくるに違いないと火を放った。火は三日三晩燃え続けたが介子推は姿を現さなかった。
火が消えた後、1本のヤナギの下で母を背負った介子推の死骸が発見された。
文公は悲しみ悔んで、母子をヤナギの下に埋葬した。山を焼いた日、つまり清明の前日に火を使うことを禁止し、
文公は介子推を偲んだ。
後にこの日を「寒食節」として、二つを併せて祝うようになった。隋・唐代になると、祖先を祀る清明節として中国の重要な祭日となった。
清明節の前後20日間に行われる墓参りは、 墓の周囲を清め、新しい土をかける。さらに、新緑の枝と、食物を墓前に供えて、紙銭(慰霊用)を焼き、拝み、最後に酒を飲み、 食物を食べる。
日本の春の彼岸(春分の日)の原型である。
現在の清明節
現在では墓参りも簡略化され、墓を清掃し、食物や生花を供えて拝むだけである。
清明節を祝う特別な食物は各地によってさまざま。一部の地方では冷たいものを食べる習慣が残っている。山東地方では、 卵と冷たいコウリャンのご飯や野菜を巻いたクレープを食べる。
山西南部では、「子福」と呼ばれる大きな饅頭を蒸す習慣がある。大きい「子福」は家族団らんを象徴し、これを祖先に捧げたのち、 みんなで食べる。
上海では、草もちを食べる。アズキ餡やナツメ餡を入れ、せいろで蒸す。
鮮やかな緑の草もちは香りもよく、清明節の代表的な食物となっている。また、
墓参りや家族そろっての宴会には太刀魚がしばしば食べられる。
浙江では、ちまきを作り、墓参りで、みんなで食べる。
北京では、墓参りのほか、もう一つ別の習慣があった。この日に人々は城隍廟に行き、焼香して参拝する。かつて北京市内には7〜 8の城隍廟があり、参拝する人が多かった。城隍廟に祀られている「城隍爺」は、竈神や財神と並び、最も信仰された神様である。毎年、 清明節になると、人々が訪れ、香を焚き、雨乞い(雨が多いときは晴れを祈る)をしたり、旅の安全や病気の回復、死者の冥福を祈った。 にぎやかな縁日が出て、芝居小屋やさまざまな物を売る屋台が並んだ。年輩者の話によれば、中華人民共和国建国初期には、まだ「城隍爺」 の巡行があって、人々は藤で作った「城隍爺」を担ぎ、その後ろからヤンコ踊り、高足(竹馬)踊り、「五虎棍(5人の男が棒を持って舞う)」 などを踊りながら練り歩いたという。
清明節では墓参りのほかに、ピクニックやボール遊び、綱引き、植樹などの活動も行われる。このため「踏青節」ともいわれる。 冷たい食物で体を損ねないように、太陽の元で体を動かして、抵抗力を向上させるという昔人の知恵なのである。
このように現在の清明節は、祖先の供養をするだけでなく、春の一日を戸外で家族が楽しく遊ぶという面を併せ持つ祭日なのである。



