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医聖・張仲景を祀る 「張仲景医薬文化祭」

2008.05.20

張仲景伝説

 古代の中国では巫術を使うシャーマンは絶対的な力を持っていた。その巫術の迷信に対抗し、医術によって病気の治療をする若者がいた。 この若者が張仲景である。

 張仲景は、後漢末期(150年頃〜219年)に現在の河南省南陽市の下級官僚の家庭に生まれた。父は知識人であったため、 張仲景は幼いころから多くの書物に触れる機会があった。張仲景は、史書から扁鵲(へんじゃく:中国古代における伝説的な名医)の話を読み、 扁鵲のずば抜けた医術に強い感銘を受け、医学に深い興味を覚えた。 張仲景は当時人々に尊敬されていた名医張伯祖に10歳で弟子入りし、 医術を学ぶ。張伯祖は、利発で苦労を厭わぬ少年をとても気に入り、生涯を通して得た医学知識をすべて伝授した。

 師の教えに加えて張仲景は医学書を広く読んでおり、各流派の医術を臨床に用い、若くして有名な医者となった。

 張仲景自身は官界に魅力を感じていなかったのだが、父の命令に従い、霊帝の時代(167〜189年)に官吏登用試験を受け合格し、 長沙の太守となった。在職期間中も彼は人々の治療を続けた。当時、庶民は役人に気軽に近づくことはできなかったのだが、 張仲景は毎月1日と15日に役所の門を開き、 大堂に座り、民衆の病気の治療を行った。評判を聞き、遠くからやって来る人も多かった。 後世の人々は民衆の為に力を尽くす医者を「坐堂医生」と呼んで張仲景の行いを敬った。

 

医学理論と処方を一体にした 『傷寒雑病論』の完成

 

 張仲景は役人となってからも医薬の研究を重ね、民間処方に使われている多くの薬草を採集し、研究した。どんなに遠いところにいようが、 師と仰ぐ人を見つけると訪ねて教えを請うた。

 しかし、この張仲景にしてもどうしても治療できない疫病があった。当時、後漢末期には戦乱が頻発し、土地が荒廃して疫病が流行した。 一つの村が無人となるほど多くの人が死んだ。死因の70% は傷寒病(腸チフス)である。病人を救う手段がなかったことを嘆いた張仲景は、さまざまな処方を探し求め、 古典医籍の基本理論を研究し直して、自身の臨床経験と結び付けるなど研究に研究を重ね、ついに『傷寒雑病論』 を書き上げたとされている。

 医学理論と処方を一体にした『傷寒雑病論』のなかで、彼は中医学の臨床の基本原則である「弁証論治」を確立させた。 弁証論治は中医学の中心的概念である。それは、さまざまな診断方法によって症状を分析し、患者の生理的病理的特徴に季節、環境、 生活習慣などの要素を加味して総合的に分析した後、病気を引き起こす原因を判断し、適した治療方法を確定させるというもの。

 唐・宋代以降『傷寒雑病論』は、『傷寒論』と『金匱要略』の2つの本に分けられ、後に中国四大古典医学書の一つとされた。 現在に至るまで中医学必読の古典的著作である。

 

張仲景を記念する「医聖祠」 

 南陽市城東温涼河畔の仲景墓がある地に、張仲景を記念した「医聖祠」が建てられた。いつ建てられたかは分からないが、何度か改築され、 現在の医聖祠は1982年に再建された。

 医聖祠は現在、「張仲景博物館」とも呼ばれ、各地から多くの参拝者が訪れる。

 敷地内には山門、照壁(目隠し用の塀)、仲景塑像、墓、正殿などが一直線に並び、両側には双廊、仁術館、仲景堂、寿膳堂などが建つ。 入り口の望楼の下部には南に向かって翼を広げ、まさに飛び立とうとする一対の朱雀が彫られている。この朱雀は方位と吉祥を象徴している。

 医聖祠の大殿内には『傷寒雑病論』の各種の版本や国内外の医学関係者から寄贈された文献資料がある。 ほかにも医聖祠の修復時に出土した貴重な資料が陳列されている。なかでも医聖祠の「三宝」は必見だ。一つは後漢時代の針灸銅人 (経絡などを印した人体模型)。身長24cm、 胸幅7cmの小さなものだが宋代の針灸銅人より千年も早いもの。 二つ目は、晋代の咸和5年(330年)仲景墓の墓前に建てられた墓碑。 これは医聖が亡くなってから111年後に建てられたもので、極めて高い学術的、歴史的、芸術的価値を持っている。三つ目は、 白雲閣蔵本の木刻版の『傷寒雑病論』で、張仲景の第46代の子孫である張紹神が所蔵していたものである。