新春の満月を祝う大切な祭
2千年以上も昔、前漢の文帝時代(BC180? BC157年) に、正月15日を 「元宵節」と定めた。さらに武帝の時代(BC141? BC87年) には宇宙のすべての神を祭る「太一神」の日とされ、大切な祝祭日となった。
元宵節に灯火を飾る習慣ができたのは、後漢の明帝の時代(AD57年? 75年) である。
仏教では僧が仏舎利に灯りを燈して仏を敬う習慣があった。仏教を深く信仰していた明帝は、元宵節に宮殿と寺の中に灯りを燈し、 士族も庶民もみな灯りを燈して仏を敬うようにと命じた。この後、次第に民間の盛大な行事へと変化していったのである。
元宵節に関する湯円の伝説
元宵節に関する伝説の一つ、元宵節に食べる湯円(お団子)にまつわる言い伝えを紹介しよう。
前漢の武帝の寵臣に名を東方朔という知恵者がいた。ある日東方朔は元宵という宮女が井戸に身を投げようとしているのを助けた。 彼女は新年を迎え、家族に会いたいという思いがつのったという。 両親に会えず孝行もできないなら死んだ方がましだと思いつめたというのである。
東方朔は元宵に同情し、家族に会わせてあげようと長安の街に占いの店を開いた。 人々は高名な彼に占いをしてもらおうと争うように店にやってきたが、どの人にも「正月16日、 火が身を滅ぼす」という卦が出て、長安の街は恐慌に陥った。人々はあわてふためき、災いを回避する方法を東方朔に求めた。
東方朔は「正月の夜、火神は赤い衣を着た女神を下界に遣わすだろう。彼女は長安を焼く命令を受けた使者である。 わたしはあなた方におまじないを書いてさしあげるが、その日には、皇帝さまにも何らかの方法を考えてもらおう」と、 彼は赤い紙を置いて去って行った。
人々は宮殿の皇帝の元へ走った。武帝が赤い紙を広げてみると「長安の災難、火が宮殿を呑む、15日の火、 宵の空を赤く染める」と書かれていた。皇帝は大いに驚き、知恵者である東方朔を急ぎ召した。東方朔は 「火神が一番好きな食べ物は湯円だそうですから、15日の晩に元宵に湯円を作らせるとよいでしょう。 皇帝ご自身でそれをお香とともに供えてください。同時に都のすべての家で湯円を作らせ、火神に供えてください。 さらに15日の夜には人々に一斉に灯りを燈させ、 爆竹や火をたかせて、都中が火に包まれているように見せるのです。都の外の人々にも15日の晩は都に来て、 灯りを鑑賞するようにとのお達しを出せば、災いから逃れることができるでしょう」
こうして正月15日には、
長安の都には色鮮やかな灯りが燈され、見物客が押し寄せて、たいへんなにぎわいになった。
元宵の両親と妹も都にやってきて楽しみ、元宵は家族との再会を果たした。
長安の都はにぎやかな一夜を無事に過ごし、武帝は大いに喜び、これ以後も正月15日には湯円を作り、 火神に供え、都中で灯りを燈し、爆竹を鳴らすようにと命じた。
また、元宵が作った湯円がとてもおいしかったため、人々は湯円を元宵と呼び、この日を元宵節と呼ぶようになったという。このようにして、 元宵節には元宵(湯円)を食べるのが習慣となったのである。



