2700年の歴史を持つ古都
黄河流域の東岸、華中平原にある開封は、中華民族文化発祥地のひとつである。2700年前の春秋時代、 鄭国の君主鄭荘公はここに穀物倉庫を建て、「辺彊開拓」の意味から啓封と名付けた。その後BC156年、 漢代(前漢)の景帝啓の名前と同じ字であったため、啓の字を避け、開封と改名された。
国都となったのは、BC364年、 戦国時代の魏国に始まり、後梁、後唐、後漢、後周、北宋、金など7つの王朝がここに都を置いたことから「七朝の古都」 とも呼ばれている。
北宋時代(960〜1126年)に開封は最盛期を迎え、宋の都「京」として167年間栄えた。当時の京城には、 全長30km以上に及ぶ城壁が周りを取り囲み、 外城、内城、皇城の3つの部分から成っていた。
皇城には瑠璃瓦が輝き、通りが縦横に走り、人口は百万を超す巨大な都市だった。手工業、商業、交通、科学技術、 文化教育などでも空前の繁栄ぶりを見せ、全国の政治・経済・文化の中心であり、国際的なメトロポリスでもあった。
北宋の画家張択端が写実的な技法で描いた絵巻『清明上河図』では、京城の繁盛ぶりが生き生きと描かれている。当時の遼、西夏、 大理などの国との交流も密接で、朝鮮、日本、東南アジア、南アジア、アラビアや東アフリカの国々などの使者や商人も京に集まった。
金代以降、開封は国の都ではなくなったが、明代から清代、新中国の成立にかけて、河南省の省都、中原第一の商業都市として栄えた。
1954年に省都が鄭州に移ってからは、観光都市として注目され、中国六代古都(※)の一つとして多くの観光客が訪れている。
開封の名所旧跡
古代運河遺跡
北宋以前、黄河は開封から数百m離れたところを流れていた。よく氾濫していたものの、開封城には影響を及ぼさなかった。その後、 黄河は数回流れを変え、金代に至ると開封の近くを流れるようになった。元代にはついに開封を流れるようになり、しかもよく氾濫し、 そのたびに開封城に壊滅的な被害をもたらした。1194〜1949年の間に、黄河は開封で3百回以上も決壊し、人々はその都度、 街を新たに造り直し蘇らせた。
現在の開封の地下3〜12mの所には6つの都市の城跡が積み重なっている。 魏国の大梁城、唐代の州城、北宋代と金代の京城、明代の開封城と清代の開封城である。城と一緒に、古代運河も地下に埋もれ、 現在の開封に運河はない。
隋(581〜618年)は中国を統一して都を洛陽としたが、それと同時に大規模な運河工事に着手した。 杭州から開封を経由して洛陽に至る通済渠、さらに洛陽から天津に至る永済渠からなるこの運河は「大運河」と呼ばれる。
元(1271〜1368年)が都を北京に定めた13世紀末に、 運河はその迂回部分を切り取られ、洛陽も開封も通らず天津に至るようになり、今日の「大運河」が形成された。
開封を流れていた通済渠はたび重なる氾濫のため、開封古城とともに地下に埋もれ、今はその遺跡だけが残されている。
大相国寺
大相国寺は、中国の仏教史上において大きな影響力を持つ寺院で、仏教文化交流の中心として内外の仏教界に注目されてきた。建立は、 555年にさかのぼる。当初は建国寺という名であった。712年に唐の睿宗が皇帝に即位したのを記念して大相国寺と改名し、 このときから皇室ゆかりの寺院となった。大相国寺は、日本の京都の相国寺と深い関係を持つ。
804年、空海は開封を経由して長安に到着し、青龍寺の高僧恵果から密教の教えを学んだ。空海は唐に滞在中、 何度も大相国寺の住職澄暉を訪ね、天台宗の密教を学んだ。また、当時の大相国寺の景色を記したメモを残している。
宋代には日本の高僧成尋が、天台山・五台山を行脚して、その紀行文『参拝五台天台記』に大相国寺の様子を生き生きと描写している。
明代、日本の仏教界は大相国寺を敬い、京都に相国寺を建てた。
1983年以降、京都相国寺は訪中団を組織、度々大相国寺を訪問し、友好関係を結び、 日中仏教界の伝統的な友好を深めたいという希望を表明した。両国の努力の結果、日中国交回復20周年の年に、 友好寺院の調印式が行われた。



