<日本とかかわりの深い大連>
現在、 人口約600万人という大都会「大連」だが、19世紀末までは小さな漁村があるだけだった。 1898年、ニコライ2世統治下の帝政ロシアは、この地を清朝から租借し、「ダーリニー」(ロシア語では遠いという意味) と名付けた都市建設を始めた。その名残りが、現在「ロシア風情街」として観光地の一つとなっている。
ロシアは、ここにシベリア鉄道の路線を敷き、極東における軍事、商業都市建設を目的として都市開発を始めたのだが、
間もなく1904年に日露戦争が起こった。
日露戦争に勝利した日本は、1905年のポーツマス条約により遼東半島南部の租借権を得て、以後「大連」の都市造りを担っていった。 満州鉄道(満鉄)がここを拠点に設立され、多くの日本人が移り住んだ。現在、大連の中心地「中山広場」に面した建物、「中国銀行大連市分行」 (旧横浜正金銀行大連支店)、「大連市郵政局」(旧関東逓信局)、「遼寧省対外貿易公司」(旧大連警察署)、「大連賓館」 (旧大連ヤマトホテル)、「中国工商銀行大連分行」(旧大連市役所)などは日本統治下時代の日本人建築家の設計によるものである。
さらに1932年に日本は満州国を設立し、1935年当時には約13万人の日本人が住み、 日本人小学校などもあった。
異国情緒あふれれる『ロシア風情街』
大連は広場が多い街である。「中山広場」を中心に、「友好広場」「勝利広場」「民主広場」「港湾広場」「三八広場」「二七広場」「海軍広場」 「花園広場」「星海広場」などが点在する。そして広大な敷地面積の「労働公園」からロープウエーでテレビ塔の建つ「大連テレビ台」に上ると、 ここから市内を一望し、海を眺めることができる。
街並みはパリの街を模して、広場から放射状に道が延びている。近年、高層ビルや高層マンションが次々に建てられて街の様相が変わった。 北の香港といわれるほどの活気に満ちている。
旧ロシアや旧日本の風情が残る建物は中山広場周辺に集まっている。
それぞれの広場周辺の特徴を見た後は大連のショッピングを楽しむことができる。「青泥窪橋」
は高級デパートが建ち並ぶ洗練されたエリア。そして、勝利広場の地下街は、さまざまな店舗が連なり、
一歩中に踏み込むと行けども行けども終わりがない迷路となっている。
大連は中国のなかでも洗練されたファッションの街といわれている。この地域の女性の体型は、脚が長く、背が高いので、おしゃれもさまになる。 街行く女性たちは、皆着こなしが上手だ。中国初のモデル学校があることでも知られており、センスの良さは定評がある。
市内から約25キロメートル南東に、 開発区と金石灘というエリアがある。金石灘は森林公園をはじめ、海岸やゴルフ場があるリゾートエリア。 2004年に大連駅から金石灘駅へ約50分で行く快速電車が開通し、 市民憩いのリゾートとして人気だ。また、開発区には、IT関連企業やバイオ企業など3000社を超える会社や工場などが建つ。 上海の経済開発区ができるまでは中国を代表する経済開発区だった。ここの企業のうちの大半は日本企業と取り引きがある。
現在、大連と日本は経済の面で非常に密接な関係を築いている。



